William Howard Taft National Historic Site
Dayton Aviation Heritage National Historical Park
Hopewell Culture National Historical Park
Cuyahoga Valley National Park
First Ladies National Historic Site
James A. Garfield National Historic Site
Perry's Victory and International Peace Memorial
人気絶頂を誇るリーダーの後を継ぐことは、昨今の例を見るまでもなく、難しいことである。後任者は前任者ととかく比較される一方で、前任者の積み残しを処理する損な役回りを演じなければならない。セオドア・ルーズベルト大統領の後継指名を受けて第27代大統領に就任したWilliam Howard Taft(ウィリアム・ハワード・タフト)もその一人である。タフトは、絶大なる人気を誇ったセオドア・ルーズベルト大統領の進歩的政策の継承を期待されたが、その期待はときとして厳格な憲法解釈をとる法律家としての信念と衝突することとなり、結果として前任者の期待に反する政策を遂行し、前任者のチャレンジを受けて再選を逃すという辛酸を舐めた。後に最高裁長官に選ばれ、その職責を心から歓迎したという。タフトは、一時は体重が350ポンド(160kg)を超え、アメリカ史上最も太った大統領という不名誉な称号を受けているが、アメリカで大統領と最高裁長官を経験した唯一の人物である。彼の実家がWilliam Howard Taft National Historic Site(ウィリアム・ハワード・タフト国立史跡)として、オハイオ州のシンシナティーに保存されている。
タフトは、1857年9月15日に、オハイオ州シンシナティーで、有力な弁護士の父Alphonso(アルフォンソ)と母Louisa(ルイーザ)との間の3番目の子供として生れた。アルフォンスは、後にグラント政権下で戦争長官と司法長官を務め、さらにはオーストリア=ハンガリー帝国大使、ロシア帝国大使を歴任した人物である。タフトも、有能な法律家であった父親の背中を見て育ち、父親と同じく法律家を目指すようになる。父親と同じくエール大学に進学し、卒業後地元のシンシナティー大学のロースクールで法律を学び、オハイオ州の弁護士として登録された。オハイオ州のハミルトン郡の検察官を皮切りに、内国税徴収官、ハミルトン 郡法務官、オハイオ州高裁判事など地元法曹界で活躍した。1900年には、33歳の若さで連邦訟務長官に任命され、1902年には連邦高裁判事に任命され、法律家として出世街道をまい進した。同じ頃、シンシナティー大学ロースクールの学長も務め、憲法を教授した。この頃から彼の夢は、いつの日か最高裁長官になることであった。
タフトの実家
その夢は途中寄り道をすることになる。1900年マッキンリー大統領は、米西戦争の結果新たに米国領となったフィリピンの民生政権への移行準備委員会の委員長にタフトを任命した。タフトは、翌年、そのままフィリピン総督に就任した。タフトは、インフラ整備、近代的な法治国家の建設にまい進し、その努力はアメリカ、フィリピンの双方で高く評価された。1903年にセオドア・ルーズベルトから最高裁長官への打診があったが、タフトは、フィリピンでの国家建設が道半ばであるとして辞退している。1904年には、米国に戻り、セオドア・ルーズベルト政権下で戦争長官に任命された。1906年に当時アメリカ領であったキューバで反乱が起きた際には、キューバの臨時総督に任命され、1907年にはパナマ運河委員会の委員長 に選ばれ、パナマ運河プロジェクトの初期段階の監督を行った。セオドア・ルーズベルト大統領のタフトの行政手腕に対する信頼は厚く、大統領が外遊中は事実上NO.2の役割を果たした。
1908年の大統領選挙では、セオドア・ルーズベルト大統領は不出馬を宣言し、タフトを後継に指名した。圧倒的な人気を誇る現職大統領の後押しで、タフトは、民主党のWilliam Jennings Bryan(ウィリアム・ジェニングス・ブライアン)候補を大差で破り、第27代大統領に就任した。タフトは、政府の力を用いて社会改革を実現していくセオドア・ルーズベルト大統領の進歩主義を支持することを自認していたが、彼の自認する進歩主義は、厳格に解釈された、法律で与えられた権限の範囲内でという限定付きのものであった。また、ルーズベルトの政治的な狡猾さは持ち合わせておらず、法律を素直に厳格に適用するため、多くの政敵を作ってしまった。80の独禁法訴訟の提起、州際取引委員会の鉄道運賃規制の権限強化、郵便貯金制度の創設、所得課税や上院議員の直接選挙を認める憲法改正など進歩的な実績を上げつつも、これらの政策は議会の進歩主義者からは十分でないと見られる一方で、保守派の反発を招いた。と� ��わけ、1909年の関税法を巡っては、大幅な関税の引き下げを目指したものの、途中で保守派と手を握ったため、中途半端な引き下げに終わり、関税が引き上げられたカテゴリーもあったことから、進歩派の反発を招いた。進歩派は、これをタフトの裏切りととらえ、1912年の大統領選挙では、再びセオドア・ルーズベルトを担ぎ出そうとした。ルーズベルトもタフトが進歩主義路線から外れているとみて出馬に意欲を示した。タフトは、共和党の保守派と結び、進歩派を追い出したため、ルーズベルトは、進歩派を結集して、第3の政党である進歩党を結成し、大統領選に出馬した。両者は激しく相手を批判し、共和党の票はタフトとルーズベルトに分かれた。この分裂劇は民主党候補であったWoodrow Wilson(ウッドロー・ウィルソン)に勝利をもたらしただけであった。
失意のタフトは母校のエール大学に戻り、憲法の教授となった。タフトは、エール大学教授を8年間務めたが、この間、第1次戦争が勃発し、軍需産業と労働者間の紛争処理を行う委員会の委員長も務めた。仲裁を通じた紛争の解決を提唱し、後に国際連盟へと発展する前身ともいうべきLeague to Enforce Peaceの会長を務めた。そして再びタフトにも運が回ってくる。1921年共和党のWarren Harding(ウォーレン・ハーディング)大統領は、タフトを最高裁長官に指名した。タフトは全会一致で上院の承認を得て、第10代最高裁長官に就任した。念願がかなったタフトは、後に最高裁長官時代が彼の人生の花であり、大統領であったことは覚えていないと語ったという。当時最高裁は、連邦法案件は何でも持ち込まれていたため、大量の未処理案件を抱えていた。タフトは、議会に働きかけ、最高裁に事案の重要性に鑑みて案件を選択できる権限を獲得した。また、最高裁と長官に連邦裁判所システム全体への監督権限を獲得し、3権目の柱として統制のとれた組織体制の確立を可能とした。現在の最高裁の建物は、タフト長官の時代に実現したものである。タフトは1930年まで最高裁長官を務め、健康上の理由から辞任後間もなく亡 くなった。彼は、アーリントン墓地に葬られている。
タフトは最初から最高裁長官になった方がよかったのかもしれない。
(国立公園局のHP)
テネシー州のトップの物理的な療法の学校
ライト兄弟は、1903年12月17日、ノースカロライナ州キティーホークで人類初の有人動力飛行に成功したものの、最大飛行距離はわずか260mで実用化にはなお程遠い状況であった。キティーホークでの成功は、実用飛行に向けての最初の一歩に過ぎなかった。ライト兄弟は、故郷のオハイオ州Dayton(デイトン)に戻り、家業の自転車屋から足を洗って退路を断ち、実用化のレベルを目指してすぐに飛行機の改良と実験飛行に取り組んだ。1904年、ライト兄弟は、初の有人動力飛行に成功したフライヤー1号機を基により強力なエンジンを搭載したライト2号機を開発し、飛行実験をデイトンのHuffman Prairie(ハフマン・プレーリー)で繰り返した。ハフマン・プレーリーを選んだのは、キティーホークのように年中一定方向に強い風が吹いている場所ではなく、普通のところで飛行が可能とならなければ、実用化とは言えないと考えたためである。ハフマン・プレーリーの所有者Torrance Huffman(トーランス・ハフマン)は、ライト兄弟に無料で使用を認めた。
しかし、フライヤー2号機での飛行実験は芳しい結果をもたらさなかった。弱い風でも離陸ができるように発射装置を開発し、最大5分間の飛行や初めての一回転飛行を達成したものの、短距離をホップするような飛行しかできないことが多く、着陸は常に墜落の危険を伴うものであった。そこで1905年6月には尾翼の操縦を両翼のたわみと切り離して独立させ、操縦性の向上を図ったが、なお短距離の飛行しか達成できなかった。1905年の7月には、飛行実験で激しく上下にピッチを繰り返し、鋭い角度で地上に激突し、操縦者のOrville(オービル)を放り出して大破してしまった。オービルは重傷を免れたが、これを機に、飛行中の安定性を増すための改造を施した 新たな機体を製作することとした。ライト兄弟は、より大型の昇降機を翼からより突き出た位置に取り付けることとした。これによって、ピッチ運動は消え、飛行機の安定性は格段に向上した。このフライヤー3号機は、10月には30分以上の飛行を達成し、ほぼ実用化に目途をつけた。1906年にライト兄弟はフライヤー3号機で飛行機の特許を取得した。
1908年には、陸軍ヴァージニア州Fort Mayer(フォート・メイヤー)基地やフランスでのデモンストレーション飛行に成功し、ライト兄弟は陸軍の契約を手中にして、1909年The Wright Company(ライト会社)を設立し、航空機の販売を開始した。航空機製造業の始まりである。ライト会社は、Wilber(ウィルバー)が社長、オービルが副社長で、本社をニューヨークに置き、製造工場をデイトンに、パイロットの養成学校をハフマン・プレーリー飛行場に置いた。ライト兄弟の夢は花開いた。ウィルバーは1912年に病気で亡くなり、オービルも1915年に株式を売却し、経営から離れるが、航空機はライト兄弟の手を離れ、彼らの夢を引き継いだ人々によって一大産業へと進化していった。
ライト兄弟が空を飛ぶ夢を見、飛行機の開発に没頭し、飛行機の実用化を実現させた町、デイトンは、航空機産業の聖地として多くの観光客が訪れている。ここには、ライト兄弟が飛行実験を繰り返したハフマン・プレーリー飛行場が保存 されているほか、Wright Brothers Aviation Center(ライト兄弟航空センター)には飛行機を実用化のレベルに高めたフライヤー3号機が保存されている。このフライヤー3号機は、いったん分解されたものを再び組み立て直したもので、パーツの半分以上はオリジナルである。また、ライト兄弟が経営した自転車屋(5店舗中4番目のもの)も保存されている。
自転車屋にはライト兄弟が製作した自転車のオリジナルが展示されており、興味深い。なお、ライト兄弟が住んでいた家は、自動車王ヘンリー・フォードが買い取り、フォード博物館に移管してしまったため、現在はその跡しか残っていない。
一介の田舎町の自転車屋に過ぎなかったライト兄弟は、そのたゆまぬ探究心と努力によって、人類初の有人動力飛行を達成し、さらにそれを実用化のレベルにまで高め、後の航空産業発展の土台を築いた。ライト兄弟はアメリカ人の中のヒーローとして今日も語り伝えられている。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
オハイオ川の支流であるScioto River(サイオウトウ川)のほとりに古墳のような墳丘が集まった場所がある。この墳丘群は、Mound City(マウンド・シティー)と呼ばれ、今から紀元前200年から紀元500年にかけて各地に形成された人造の墳丘群の一つである。この墳丘を作った人々は、同時期に、サイオウトウ川のみならず、オハイオ川、さらにはミシシッピー川流域に同様の墳丘を築いている。(これらの墳丘の場所については、ここ(PDF)を参照。)ミシシッピー川流域に動物の形をした塚を築いたエフィジー・マウンズの人々よりも時代的には数百年遡ることになる。2200年前から1500年前の墳丘を築いた人々の文化は、1891年にその大掛かりな発掘調査が行われたMordecai Hopewell(モルデカイ・ホープウェル)氏の敷地にちなんで、Hopewell Culture(ホープウェル文化)と呼ばれている。ホープウェル文化を代表する墳丘群であるマウンド・シティーは、オハイオ州にあるHopewell Culture National Historical Park(ホープウェル文化国立歴史公園)で保存されている。
ホープウェルの円形の墳丘は、かつての原住民の墓である。ただ日本の古墳が豪族の個人墓であったのに対して、これらの多くは集団墓地であることが発掘調査によって判明している。発掘調査によると、これらの墳丘からは、木製の構造物の跡が見つかっており、その中に粘土で作られた容器の中に複数の遺骨とともに黒曜石から作られた道具や動物の形をしたパイプ、銅や動物の骨や歯で作られた装身具などが見つかっている。このため、当初は葬式が営まれた木造の構造物が立っていたところに、儀式の終了後、これを焼き払うないしは破壊して、その上に土をかぶせて墳丘を築いたものと推定されている。
ホープウェルの円墳群は、土塁で周囲を取り囲まれており、集落跡はその外側に見つかっている。このため、円墳の場所は、神聖な場所として日常生活からは区別されていたことがわかる。遺跡から発掘された標本からは、ホープウェルの人々は、狩猟を中心の生活を行っており、周囲の部族と幅広く交易していたことがわかっている。銅や銀は五大湖地方、黒曜石は現在のイエローストーン国立公園付近、サメの歯や貝殻は大西洋やメキシコ湾沿岸、雲母板はアパラチア山脈からもたらされたものである。墳丘群のある場所は、単なる墓地にとどまらず、宗教儀式その他の儀式にも使用された場所と考えられている。その際には交易で取得したものを加工した装飾品が用いられたと考えられている� �
ポトマック滝公園
マウンド・シティーには23の墳丘が数えられており、この時代の原住民の生活を垣間見る一級の遺跡となっている。ホープウェル文化国立歴史公園には、マウンド・シティーのほかに、High Bank Works(ハイ・バンク塚)、Hopeton Earthworks(ホープトン塚)、Hopewell Mound Group(ホープウェル墳丘群)、Seip Earthworks(セイプ塚)が保存されている。これらのうち、マウンド・シティー、ホープウェル墳丘群、セイプ塚が公開されている。マウンド・シティーにあるビジターセンターには、墳丘から発掘された装飾品などが展示されている。
(国立公園局のHP)
オハイオ州のCuyahoga River(カイヤホガ川)は、Mohawk(モホーク族)の言葉で、「曲がった」川を意味し、その言葉どおり、大きくU字型を描いて、オハイオ州の大都市Cleveland(クリーブランド)を通り、五大湖の一つLake Erie(エリー湖)に注ぎ込んでいる。そのうち、クリーブランド近くの22マイル(35km)とその周辺の渓谷は、Cuyahoga Valley National Park(カイヤホガ渓谷国立公園)に指定されている。クリーブランド郊外に残された貴重な自然は、大都市の住民の憩いの場となっている。ここには、カイヤホガ渓谷の自然とこれを開拓した初期アメリカの農場、運河や鉄道の跡が残っており、自然と産業史が共存する公園と言えよう。中西部ながらどことなくニューイングランドの雰囲気がする。
カイヤホガ渓谷国立公園は、国立公園に指定されているが、どちらかと言えば、大都市近郊に存在する国立レクリエーション地域のような感じがする。それもそのはずで、2000年に国立公園に昇格するまでは国立レクリエーション地域であった。公園内には125マイル(200km)以上のトレールが整備されており、手軽なハイキングやサイクリングに丁度よい公園となっている。秋には紅葉が美しい。
公園中央部には、カイヤホガ川が南から北に流れ、これに沿ってOhio & Erie Canal(オハイオ=エリー運河)が整備された。オハイオ=エリー運河は、エリー湖と州の南を流れるオハイオ川とを結ぶ総延長308マイル(493km)の運河で、146の水門が設けられ、1832年に完成した。運河の構想は18世紀末からあったが、連邦政府の資金が得られなかったため、オハイオ州がCanal Commission(運河委員会)を立ち上げて整備を行った。1840年代、50年代は、最も運河の利用が盛んであった時期で、南北戦争以降は鉄道の整備が進展し、運河は競争力を失っていった。それでも1913年の洪水で壊滅的な打撃を受けるまで、規模を縮小しながら運営は続けられた。今日では、運河の曳き舟道は、人気のウォーキング、サイクリングのコースとして利用されている。公園の中ほどには1836年に建てられたBoston Land & Manufacturing Company(ボストン土地・製造会社)の店舗であったBoston Store(ボストン・ストアー)があり、ここには、運河に関する展示が置かれ、ちょっとした運河博物館になっている。
また、カイヤホガ川に沿って、Cuyahoga Valley Scenic Railroad(カイヤホガ渓谷景観鉄道)がクリーブランドからキャントンまで走っており、鉄道に乗りながらカイヤホガ渓谷の景色を楽しむことができるようになっている。もともとは1880年に、オハイオ州東部のTuscarawas River Valley(タスカラワス川渓谷)で産出される石炭をクリーブランドやAkron(アクロン)などに運搬するために整備された鉄道であり、その後、Baltimore & Ohio Railroad(ボルティモア=オハイオ鉄道)に吸収され、1972年に景観鉄道として切り離されたものである。サイクリングを楽しむ人が多いせいか、自転車も一緒に運んでくれるようだ。
公園内には、かつての開拓者の家であるFrazee House(フレイジー・ハウス)、開拓者の農場を保存するHale Farm & Village(へール農場・村)、Everett Road(エベレット道路)にあるCovered Bridge(屋根付き橋)などが点在し、かつての雰囲気を味わうことができる。季節になると、Farm Market(ファーム・マーケット)が立ち並び、Hunt Farm Visitor Information Center(ハント農場ビジター・インフォメーション・センター)の近くでも取れたてのトウモロコシをゆでたものが売られ、行列ができるほど人気となっている。
カイヤホガ国立公園で最も有名な風景は、公園の中ほどにあるBrandywine Falls(ブランデーワイン滝)であろう。60フィート(20m)の高さから4億年前に形成された岩に落ちる様子は見ごたえがある。カイヤホガ川に東から注ぎ込むTinkers Creek(ティンカーズ川)の周囲は少し切り立って崖になっており、Bridal Veil Falls(ブライダル・ベール滝)は見所の一つとなっている。Blue Hen Falls(ブルー・ヘン滝)も美しい。
この他Happy Days Visitor Center(ハッピー・デイズ・ビジターセンター)の近くにあるLedges(レッジ)と呼ばれる巨岩の森がある。これは3.2億年前の砂岩が浸食を受けて形成されたもので、森の中に巨岩が剥き出しになっており、おとぎ話に出てきそうな雰囲気である。
カイヤホガ渓谷国立公園は、他の国立公園のような派手さはないものの、様々な楽しみ方があるので、その全てを満喫するには、何度も訪れる必要があるかもしれない。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
カイヤホガ渓谷のきれいな写真は、ここにあります。
アリスのテストは何ですか
Ulysses S. Grant(ユリシーズ・S・グラント)、Rutherford B. Hayes(ラザフォード・B・ヘイズ)、James A. Garfield(ジェームズ・A・ガーフィールド)、Benjamin Harrison(ベンジャミン・ハリソン)、William McKinley(ウィリアム・マッキンリー)、William H. Taft(ウィリアム・H・タフト)、Warren G. Harding (ウォーレン・G・ハーディング)に共通することは何か。7人はいずれもオハイオ生まれの大統領である。これに大統領になる前にオハイオに住んでいたWilliam Henry Harrison(ウィリアム・ヘンリー・ハリソン)を加えると8人になり、オハイオ州は、アメリカで最も多くの数の大統領を輩出した州であると言われる。では彼らのファースト・レディーはと言われると、名前を挙げることのできる人はほとんどいないのではないだろうか。(答は、順にJulia Grant(ジュリア・グラント)、Lucy Hayes(ルーシー・ヘイズ)、Lucretia Garfield(ルクレシア・ガーフィールド)、Caroline Harrison(キャロライン・ハリソン)、Ida McKinley(アイダ・マッキンリー)、Helen Taft(ヘレン・タフト)、Florence Harding(フロレンス・ハーディング)、Anna Harrison(アンナ・ハリソン)である。)大統領の生家や記念碑は多く国立公園ユニットとして保存されているが、ファースト・レディーに焦点を当てたものはなかった。このため、ファースト・レディーたちに焦点を当てる国立公園ユニットがオハイオ州のCanton(キャントン)にある。ここはFirst Ladies National Historic Site(ファースト・レディーズ国立史跡)と呼ばれ、アイダ・マッキンリーの実家が保存され、ファースト・レディーの記念品が集められたちょっとした博物館となっている。
ファースト・レディーという呼び名は、1849年にZachary Taylor(ザッカリー・テイラー)大統領がJames Madison(ジェームズ・マディソン)大統領夫人のDolly Madison(ドーリー・マディソン)の葬儀の弔辞で彼女のことをファースト・レディーと呼んだのが始まりと言われている。それまではMrs. President、Presidentress、Ladyなどと呼ばれていた。ファースト・レディーは必ずしも大統領の配偶者に限られず、大統領が独身の場合には、大統領夫人が務めるべき役割を親戚の他の女性が担う例があり、そのような場合にはその役割を担った女性がファースト・レディーということになる。例えば、James Buchanan(ジェームズ・ブキャナン)大統領は独身であったため、姪のHarriet Lane(ハリエット・レーン)がファースト・レディーの役割を務めた。Chester Arthur(チェスター・アーサー)大統領の場合、大統領の就任1年半前に夫人が急逝したため、ファースト・レディーの役割は妹のMary McElroy(メアリー・マクエルロイ)が務めたが、メアリーは結婚していたため、公式のファースト・レディーには数えられていない。ファースト・レディーの役割は、その女性の性格、大統領との関係などによって変わり、社交界のホステス、大統領の内助・相談相手、国民へのコミュニケーター、政治活動家など、様々な役回りを演じてきた。公式にファースト・レディーなる役職は米国政府には設けられていない。
ファースト・レディーズ国立史跡には、アイダ・マッキンリーの実家が保存されている。アイダは、銀行を経営する父James Saxton(ジェームズ・サクストン)と母Katherine(キャサリン)の長女として1847年6月8日に生まれた。アイダは、独立心の旺盛な女性で、Brooke Hall Female Seminary(ブルック・ホール女子神学校)に学び、日曜学校の教師をしていたが、ヨーロッパ留学後、その聡明さを買われ、父の経営するStark Country Bank(スターク・カウンティー銀行)で勤めるようになった。23歳のとき、南北戦争の退役軍人で検察官のウィリアム・マッキンリーと出会い、結婚した。アイダは、実家を結婚祝いに贈呈され、以後14年間、ここでマッキンリーと暮らした。二人には、相次いで二人の娘が生まれたが、いずれも病気で亡くしている。その後、アイダは健康を崩し、たびたび癲癇の発作に襲われるようになった。
夫のウィリアム・マッキンリーは、1843年1月29日に、父ウィリアムと母ナンシーの7番目の子供としてオハイオ州に生まれた。Allegheny College(アレゲニー大学)1年生のときに南北戦争が勃発し、オハイオ志願歩兵隊に一兵卒として志願兵した。上官のラザフォード・B・ヘイズに認められ、物品調達担当の軍曹に引き上げられた。アンティータムの戦いでは、敵の銃撃の中、物資配送を完遂した功で少尉に昇格した。南北戦争終了時には大尉で除隊した。終戦後ニューヨーク州のアルバニーで法律を学び、オハイオ州キャントンに戻り、検察官や弁護士を務めた。1877年に、ヘイズの支援を得て共和党から連邦下院議員に当選し、当選を重ねて歳入委員長などを務めた。1890年に担当した関税引上げ法の不人気がたたり、その年の選挙で落選したが、その翌年オハイオ州知事に当選し、2期務めた。そして1896年の大統領選挙では、産業・金融の振興を唱え、民主党のWilliam Jenning Bryan(ウィリアム・ジェニング・ブライアン)を破り、第25代大統領に当選した。マッキンリーは、強大となったアメリカの経済力を背景に、強いアメリカを推進し、1897年ハワイの編入、1898年の米西戦争の勝利によるグアム、フィリピン、プエルトリコの併合などを断行した。国内では関税の引上げによる産業保護、アラスカのゴールドラッシュによる好景気などにより、高い人気を誇った。1900年の大統領選挙は圧倒的人気で再選を果たした。
アイダは、健康状態が思わしくなかったため、副大統領夫人が大統領夫人の役割を兼務することが多かった。ホワイトハウスでの晩餐会でも、大統領が夫人の健康を気遣い、慣例に反して、自分の隣に座らせていたという。
悲劇は突然やってきた。マッキンリー大統領は、1901年9月6日、� ��ューヨーク州のバッファローで開催中のパン・アメリカ博覧会の会場で無政府主義者の Leon Frank Czolgosz(レオン・フランク・ツォルゴッズ)に銃撃され、命を落とした。大統領暗殺にアイダは大きなショックを受けた。国家葬終了後、アイダは、生まれ故郷のオハイオ州キャントンに戻った。自宅ではアメリカの国旗の上にマッキンリー大統領の写真を飾り、バラを欠かさず供えた。そして毎日のようにマッキンリー大統領の墓前を見舞い、マッキンリー大統領と天国で一緒になる日を待ちわびながら暮らしたという。アイダは、大統領暗殺から5年あまりの1907年5月 26日に59歳でこの世を去った。
(国立公園局のHP)
ファースト・レディーについては、ここを参照。
ガーフィールドは、1831年11月19日に、開拓農民であるAbram(アブラム)とEliza Ballou(エリザ・バロウ)夫妻の4番目の子供としてオハイオ州のOrange Township(オレンジ・タウンシップ)に誕生した。丸太小屋で生まれた最後の大統領と言われている。ガーフィールドは父親の名前をミドルネームにもらっている。しかし、ガーフィールドが2歳になる前に父親をなくし、貧困の中、少年期は農場で働き、家計を助けた。16歳のとき、オハイオ運河で河船を牽引する仕事につくが、マラリアにかかり、帰郷を余儀なくされる。回復後、母親の勧めでGeauga(ジオーガ)神学校に入学し、このときに後に妻となるLucretia Rudolph(ルクレシア・ランドルフ)に出会っている。その後、現在のHiram College(ヒラム大学)、さらにはマサチューセッツのWilliams College(ウィリアムス大学)に進学し、ここで弁論の腕を磨き、1856年に首席で卒業後、ヒラム大学の教師に迎えられ、翌年ヒラム大学の学長に選ばれる。同年牧師としての任命を受け、1858年にはルクレシア・ランドルフと結婚する。この後、ガーフィールドは、めまぐるしく出世をとげる。
1859年にオハイオ州の上院議員に選出され、1年法律の勉強をして、翌年弁護士資格を得る。1861年に南北戦争が勃発すると、志願兵の募集、訓練に従事し、第42オハイオ志願兵歩兵団の中佐となる。1862年には、ケンタッキーの戦線で功績を上げ、少将に昇進。激戦Battle of Shilo(シャイロの戦い)に参加し、軍名を挙げ、連邦下院議員に選ばれ、連邦議会が始まるまでの間、William Rosecrans(ウィリアム・ローズクランズ)将軍の参謀長に選ばれ、Battle of Chickamauga(チカマウガの戦い)に参戦し、中将に昇進した。下院議員としては、1871-75年に歳出委員会の委員長として活躍し、財政改革、インフレ対策に取り組んだ。
1876年に農場で生まれ育ったガーフィールドは、オハイオの農家を買い取り、9部屋1.5階建ての家を4年間かけて20部屋2.5階建ての家に改造し、家族の住まいとした。この家はLawnfield(ローンフィールド)と呼ばれた。1880年に上院議員に選ばれ、その年の共和党大会でどの候補者も過半数の票を獲得できず候補者選びが難航し、36回目の投票で意図せず大統領候補に選ばれることとなった。上院選出を辞退し、大統領選挙に乗り出したガーフィールドは、大統領候補は結果までじっと待ち積極的な運動を自らは展開しないとの伝統を破り、オハイオの自宅でスピーチを行い 、有力者と会談するなど自宅のfront-porch(玄関)から選挙戦を展開した。選挙では、南北戦争時の北軍の有名な将軍である民主党のWinfield S. Hancock(ウィンフィールド・ハンコック)候補を破り、第20代大統領に選ばれた。
1881年3月4日に大統領に就任したガーフィールドは、政治有力者の選挙区の政治任命ポストの任命はその有力者にゆだねるとの慣例を破り、ニューヨーク税関長の任命の筋を通すなど政治腐敗防止に力を入れた。当時は政権が交代するたびに選挙に協力した人に公務員の職が与えられる慣行(spoils system)があった。しかし、その年の7月2日、フランス大使への任命を断られ不満をもつCharles Guiteau(チャールズ・ギトー)にワシントンの駅で銃撃された。2発のうち1発が体内に残ったが、その所在がわからず、医師が未消毒で傷口から指を突っ込み、弾丸を捜すなどしたことから、傷がさらに悪化した。電話の発明で有名なWilliam Graham Bell(ウィリアム・グラハム・ベル)が呼ばれ、最新作の金属探知機で探知が試みられたが、発見できなかった。後になってわかったことだが、大統領のベッドのマットレスには当時珍しい金属のスプリングが使用されていたため、大統領の身体中から金属反応が出てしまった。ガーフィールドは化膿した傷がもとで容態を悪化させ、9月26日に亡くなった。現代であれば、全く命を落とすことはなかったであろう。この大統領の暗殺の結果、公務員改革論議が高まり、1883年にPendleton Civil Service Reform Act(ペンデルトン公務員改革法)が成立し、連邦政府公務員をその能力により登用・昇進させる制度(Merit System)の採用につながった
大統領の暗殺後、全米の多くの人から見舞金が寄せられ、このお陰で家族は生活に困らず、自宅の改良も可能となったという。ルクレシアは、大統領暗殺後37年間、この家に改築を重ねながら住み、彼女の死後はガーフィールド家に1936年まで引き継がれ、地元のWestern Reserve Historical Society(ウエスタン・リザーブ歴史協会)に寄贈された。現在、ジェームズ・ガーフィールド国立史跡は、国立公園局とウエスタン・リザーブ歴史協会で共同運営されている。
(国立公園局のHP)
アメリカは独立直後は国力も小さく、ヨーロッパの戦争に不介入の方針をとり、ナポレオン戦争に際しては中立の立場をとった。中立ということは、敵対するイギリス、フランスの双方と貿易を行うことを意味し、これを是認しないイギリスはアメリカの商船に攻撃を加え、船舶、乗組員を拿捕するとともに、原住民に武器を供給し、アメリカの背後から攻撃させた。このイギリスの対応に国民世論が沸騰し、アメリカは、1812年6月にイギリスに対して宣戦布告をする。いわゆる英米戦争(War of 1812)の始まりである。アメリカは、イギリスの力を過小評価し、これを機にあわよくばカナダを併合する皮算用を立てていた。
アパラチア山脈より西にミシシッピー川まで、オハイオ川から北に五大湖までの土地はNorthwest(北西部)と呼ばれ、独立戦争終了後にアメリカの領土であることが確認された。しかし、実態はアメリカ人の数は少なく、イギリスの毛皮商人が原住民と密接な交易関係を築いており、イギリスの影響が強く残り、アメリカが支配権を確立したとは言えない状況にあった。アメリカのカナダ侵攻はイギリス軍と原住民の連合軍に跳ね返され、敗退を重ね、1813年にはイギリスがミシガンを支配するまでに至った。アメリカ軍もWilliam Henry Harrison(ウィリアム・ヘンリー・ハリソン)将軍の下、立て直しを図り、オハイオ州北部を巡ってこう着状態になった。オハイオ州の北にはエリー湖がカナダまで広がっており、アメリカの態勢挽回のためにはエリー湖の支配権をイギリスから奪還することが重要となった。1813年9月10日にエリー湖の支配権を巡る戦いは行われた。
アメリカ艦隊を指揮するのは、若干27歳のOliver Hazard Perry(オリバー・ハザード・ペリー)。強力だが射程距離の短い砲弾を搭載し、風を帆に受けて接近戦を挑む作戦を企図した。Robert Barclay(ロバート・バークレー)大尉率いる当時世界最強のイギリス海軍の艦隊は、射程距離の長い砲弾でこれを迎え撃とうとした。11:45にイギリス軍の攻撃により戦いの火ぶたは切られた。ペリーは旗艦Lawrence(ローレンス)に乗り込み、6月の戦いで戦死したJames Lawrence(ジェームス・ローレンス)大尉の最後の言葉となった"Don't give up the ship!"の旗を掲げ、イギリス艦隊を目指して突進した。しかし、ローレンスはイギリス軍の2隻の大型帆船をとらえるが、激しい砲撃の中、8割の乗組員が死傷し、砲弾もつき、ペリーはローレンスを放棄せざるを得なくなる。
しかし、ペリーは、小船で脱出し、もう1隻の大型帆船Niagara(ナイアガラ)に乗り換え、再びイギリス艦隊の2隻の大型帆船を目指して突撃した。ローレンスの砲撃により大きなダメージを受けていたイギリス軍の2隻の大型帆船は、これを迎え撃つため態勢を整えようとしたところ、団子状態となってしまい、制御不能となった。そこへナイアガラが到着し、2隻に集中砲火を浴びせたところ、イギリス艦隊は降伏を余儀なくされた。
ペリーは、ハリソン将軍に宛て、"We have met the enemy and they are ours."(我らは敵に出会い、敵は我らのもの。)と勝利の報告を行った。この結果、イギリス軍はエリー湖の北のカナダ側に撤退を余儀なくされ、ハリソン将軍の軍が追い討ちをかけて再び破り、アメリカは北西部の支配権の確立に成功した。
このエリー湖でのペリー率いるアメリカ軍の勝利、この結果もたらされたアメリカとカナダとの事実上の国境画定とその後の平和を記念して、エリー湖に浮かぶ2マイル(3.2km)×4マイル(6.4km)の小さなSouth Bass Island(南バス島)に高さ352フィート(107m)の記念碑が建てられている。アメリカで4番目に高い記念碑となっている。
この記念碑にはエレベーターで展望デッキまで登れ、天気のよい日には北西にエリー湖の戦場跡を眺めることができる。
(国立公園局のHP)
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