2012年6月5日火曜日

結果の出る努力、適切な努力 - こだまの部屋


日建学院小倉校長の児玉です。
今日は、就職支援相談員の森永今日子さんに書いてもらいます。

皆さんこんにちは、森永今日子です。

先日の濱田さんの記事に「資格を持っていれば『この人は努力をする人だ』という証明になります。」という話がありました。
これは、本当にもっともだと思います。
付け加えるとしたら、その努力とは「ただ頑張る」だけではなく「『結果の出る努力』『適切な努力』のできる人」という証明になるということです。

「どんな資格を取ったら就職や転職に有利なんですか?できたらそんなに難しくなくて時間も費用もかからないものがいい」という質問を受けることがあります。
そのような質問を受けた時には「難しくて時間も費用もかかるものほど就職や転職に有利です。難しくなくて時間も費用もかからない資格なら誰でも取得することができます。誰でも取得できる資格でも、もちろん持っていて無駄になるということはありません。でも、『難しくなくて時間も費用もかからなくて誰でも取得できる資格を持っています』という人と『難しくて皆が敬遠する資格を時間や費用や様々なコストや努力を支払って取得しました』という人のどちらが評価されるでしょうか?」とお答えします。
もちろん、評価されるのは後者ですよね。

2012年6月3日日曜日

大恐慌にあえぐ帝国主義打倒しよう 革共同中央学生組織委員会 - Weekly Zenshin


週刊『前進』06頁(2523号5面1)(2012/02/13)

大恐慌にあえぐ帝国主義打倒しよう
 新自由主義は全面破産した! 3・11大結集で革命の未来開け
 革共同中央学生組織委員会

 はじめに

 「国鉄決戦と反原発・反失業でプロレタリア革命を切り開け」、本紙新年号のスローガンのもとに2012年決戦を爆発させよう。世界大恐慌の深化の中、「生き抜くこと」は革命の欲求そのものだ。日本でも3・11情勢下での「挙国一致」イデオロギーをうち破り、国鉄、福島・沖縄、そして青年・学生から闘いが巻き起こっている。
 1929年大恐慌をこえる未曽有の大恐慌が始まっている。これは、資本主義・帝国主義が歴史的に積み上げてきた全矛盾の爆発であり、とりわけ80年代以降の新自由主義攻撃の破産の結果だ。ブルジョアジーに「解決」の力はない。あるのはただ、「戦争と大失業」を激化させ、労働者人民をこれまで以上に搾取して社会を破壊することだけだ。
 この大恐慌にいかに立ち向かい、未来を切り開くべきか。それは、「資本主義は終わった! 労働者が社会の主人公になる時だ!」ときっぱり言いきり、階級的労働運動の復権とプロレタリア革命に向かっての組織をつくり出すことだ。
 現代史の出発点である1917年ロシア革命で、プロレタリアートは帝政とブルジョアジーを打倒し労働者国家をうち立てた。資本主義は終わりのある体制で世界革命は実現可能であり、労働者は国家権力を握って社会を再組織する力を持っていることを証明した。ここから世界史は「資本主義から社会主義・共産主義への過渡期」に突入し、それは今も現代世界を規定している。しかし、29年大恐慌に端を発する30年代の世界的な革命情勢は、スターリン主義の裏切りによって血の海に沈められた。この敗北を繰り返してはならない。20世紀からの100年越しの課題をのりこえる時は今だ。
 支配階級はこの「革命の現実性」をリアルに感じているからこそ、この一世紀ひたすら労働者の団結を破壊し、革命の芽をつぶすことに全精力を注いできた。その頂点が新自由主義攻撃だった。しかし新自由主義が大破産した今、全世界の労働者人民が確信をもって闘いに立ち上がっている。今こそ資本主義にとどめを刺そう。「原発いらない! 3・11福島県民大集会」(郡山市)に総結集し、2012年の大飛躍へ突き進もう。

 「国家破産」の時代が到来

 07年パリバ・ショック、08年リーマン・ショック以来の世界大恐慌は、本格的爆発過程に入っている。
 一つに、「国債暴落」と「国家破産」の時代が到来した。「国家の信用」はゼロ化している。二つに、米ドル体制の崩壊、世界経済の分裂、経済収縮が一体で起きている。とりわけ、戦後世界体制の基軸としての「ドル本位制」の崩壊は、帝国主義世界支配を最後的な大混乱にたたき込む。三つに、労働者階級にとって大恐慌とは「戦争と大失業」であり徹底的に非和解だ。大恐慌へのわれわれの回答は、ただ一つ革命しかない。
 以下、世界の大恐慌の現状を確認しよう。

2012年5月31日木曜日

テキサス州 - Wikipedia


テキサス州
State of Texas
州の愛称: ひとつ星の州
Lone Star State
州都 オースティン
最大の都市 ヒューストン
州知事 リック・ペリー(en)
公用語 法的指定なし
面積
 - 総計
 - 陸地
 - 水域
全米第2位
696,241 km²
678,051 km²
17,574 km² (2.5%)
人口(2010年)
 - 総計
 - 人口密度
全米第2位
25,145,561人
37.2人/km²
合衆国加入
 - 順番
 - 加入年月日

28番目
1845年12月29日
時間帯 UTC -6, -7
DST -5, -6
緯度 北緯25°50' - 36°30'
経度 西経93°31' - 106°38'
東西の幅 1,244 km
南北の長さ 1,270 km
標高
 -最高標高
 -平均標高
 -最低標高

2,667 m
520 m
0 m
略称 (ISO 3166-2:US) US-TX
ウェブサイト テキサス州政府
上院議員 ケイ・ベイリー・ハッチソン
ジョン・コーニン

テキサス州Texas、IPA:/ˈtɛksəs/)は、アメリカ合衆国の州のひとつ。略称はTX。合衆国本土南部にあり、メキシコと国境を接している。

人口[1]はカリフォルニア州、面積[2]はアラスカ州に次いで全米第2位の州である。「テキサス」は、インディアン部族のハシーナイ連合(カドー族)のカドー語で「友人」または「同盟者」を意味する「テイシャ(Teja=táyshaʔ)に由来し[3]、スペイン人がカドー族そのものと東テキサスにおけるその入植地域の名前にあてたものである。テキサス共和国時代から使用されている、白い星を一つあしらった州旗からローン・スター・ステイト (Lone Star State) とも呼ばれる[4]

テキサス州は南にメキシコ、西にニューメキシコ州、北にオクラホマ州、北東にアーカンソー州、東にルイジアナ州と境を接している。面積は696,241 km2、人口は約2,470万人で現在も増加しつつある。人口ではヒューストンが州内で最大かつ全米でも第4位の都市であり、サンアントニオが州内第2位、全米で第7位となっている。ダラス・フォートワース都市圏とヒューストン大都市圏は全米でそれぞれ第4位と第6位の都市圏である。その他の主要な都市としては、ダラス、エル・パソ、フォートワースおよび州都のオースティンがある。

テキサス州はその大きさやバルコンズ断層のような地質特性の故に、アメリカ合衆国南部と南西部の双方に似通った多様な地理的景観がある[5]。砂漠地の面積は10%足らずである[6]。人口集中地の大半は元のプレーリー、草原、森林および海岸にある。東から西に移動すると、海岸の湿地と松林に始まり、うねりのあるプレーリと岩の多い丘が続き、最後は砂漠とビッグベンドの山脈になる。

「シックス・フラッグス・オーバー・テキサス」という言葉はテキサスを支配したことのある6つの国を表している。テキサスの地域を最初に領有権主張したヨーロッパの国はスペインだった。フランスが短期間の植民地を保持した。続いてメキシコが領有したが、1835年に独立してテキサス共和国となった。1845年にアメリカ合衆国28番目の州として併合され、それが1846年に米墨戦争を引き起こす一連の出来事となった。奴隷州だったテキサス州は1861年初期にアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、南北戦争の間はアメリカ連合国に加盟していた。戦後は合衆国に復帰したものの、長い経済不況の期間を過ごした。

南北戦争後のテキサス州を繁栄させた産業は牛の牧畜だった。牧畜業の長い歴史があるためにテキサスはカウボーイのイメージと結び付けられることが多い。1900年代初期に油田が発見されて州の経済が成長し、経済構造が変わった。20世紀半ばには大学に大きな投資をしたこともあり、多くのハイテク企業を含む多様な経済に発展した。今日、フォーチュン500に入る企業の数では全米のどの州よりも多い[7][8]。各産業は成長を続けており、農業、石油化学、エネルギー、コンピュータと電子工学、宇宙工学およびバイオテクノロジーの分野で先頭を走っている。2002年以来輸出高でも国内をリードしており、州総生産(Gross state product)は国内第2位である。一人当たり総生産は国内第23位となっており、国内平均より低い。

先コロンブス期のこの地にはインディアンの諸部族が居住していたが、1492年にアメリカ大陸がクリストファー・コロンブスによって「発見」されると、テキサスもヨーロッパ人によって征服された。

16世紀以来、スペイン帝国領ヌエバ・エスパーニャ副王領(「新しいスペイン」)に属し、1821年メキシコがスペインから独立すると、メキシコ領コアウイラ・イ・テハス州の一部となった[9][10]。メキシコ政府はこの地方の開発を進めるため、アメリカ合衆国人移民を認め[11]、アメリカ合衆国人人口が増加したテハス各地でのアメリカ合衆国人入植者たちの発展が進むにつれてアメリカ合衆国人入植者とメキシコ政府との摩擦が起り、その為1830年にメキシコ政府はアメリカ合衆国人入植者がアメリカからテキサスへ来るのを禁止した[12]。。

奴隷制を認めないなどの、メキシコの政策に不満を感じたアメリカ合衆国人入植者たちはテキサス革命を決心し、1835年にメキシコからの分離を目指して反乱を起こし[13]、1836年にテキサス共和国として一方的に独立を宣言した。同年メキシコ軍の進軍によりアメリカ合衆国人入植者がたてこもっていたサンアントニオのアラモ伝道所の砦が陥落し、守備隊は全滅した(アラモの戦い)。テキサス独立軍は「アラモを忘れるな」("Remember the Alamo")を合言葉に、メキシコ軍と対峙、メキシコのカウディーリョ アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍率いるメキシコ軍をサンジャシントの戦いで撃破した[14]。司令官のサンタ・アナが捕らえられたため、メキシコは止むを得ずテキサス共和国の成立を認めた。

テキサスの独立後、アングロ・サクソンが主導権を握ったテキサス共和国ではメキシコ政府が廃止した黒人奴隷制が復活した。

1845年にテキサスはアメリカ合衆国の28番目の州として併合された[15]ため、翌1846年テキサスを併合されたメキシコがアメリカに宣戦し米墨戦争が起こった。米墨戦争はアメリカ合衆国優位に進み、1848年アメリカ合衆国はメキシコを破った。この戦争によってメキシコは領土の半分を失い、アメリカ合衆国は現カリフォルニア州、アリゾナ州などの現南西部をメキシコから得た。

1861年の南北戦争ではアメリカ連合国に属し[2][16]、戦後1870年に合衆国への復帰が認められた。

参照:テキサス州の地理

テキサス州はアメリカ合衆国の南中部に位置している。州境の3方が川で規定されている。 テキサス州は西部でニューメキシコ州、北部はレッド川を挟んでオクラホマ州に、及び東部はサビン川を挟んでルイジアナ州、およびアーカンソー州に接している。リオ・グランデ川を超えた、南西部において、テキサス州はチワワ、コアウイラ、ヌエボレオン、及びタマウリパスのメキシコの州と接している。パンハンドル地域とオクラホマ州との東部州境は西経100度線、北部州境は北緯36度30分線、ニューメキシコ州との西部州境は西経103度線となっている。エル・パソ市は州の西端にあり、北緯32度線とリオ・グランデ川に接している[17]。テキサス州の南東部においてはメキシコ湾が展開し、バイユーの流れる湿地が多い。最高地点は、州西部のグアダルーペ山脈国立公園内にある標高2,667mのグアダルーペ峰。北西部にはラノ・エスタカドと呼ばれる平原が広がる。

国立公園、州立公園、その他の保護区には、以下のようなものがある。西部の他州に比べ、公有地の面積比率が低い。

テキサス州は面積696,241 km2と、アラスカ州に次いで全米第2位の広さがある。これはフランスより10%だけ大きく、ドイツや日本のほぼ2倍に相当する。世界の行政区分の中では第27位であり、世界の国と比べてもチリやザンビアに続いて第40位である。

テキサス州はケッペンの気候区分では10の地域、土壌区では14の地域、また生態地域では11の地域に区分されるほど、土壌、地勢、地質および植物相や動物相における違いで地域を分類するのが大変なところである[18]。一つの区分法として南東部から西に向って、メキシコ湾海岸平原、内陸低地、グレートプレーンズおよび盆地と山脈地帯に分類する方法がある。メキシコ湾海岸平原は州南東部でメキシコ湾を包み込むようにしている。この地域の植生は密な松林である。内陸低地はなだらかにうねる丘の森林地帯であり、大きな松硬材林の一部である。州中央部のグレートプレーンズはパンハンドル地域やリャノ・エスタカードからオースティンに近いテキサス・ヒル・カントリーに跨っている。この地域はプレーリー(丈の高い草原)やステップ(丈の低い草原)が大半を占めている。テキサス州最西部すなわち「トランス・ペコス」(ペコス川より向こうの地域)は盆地と山脈地帯である。この地域は最も変化が激しく、サンド ・ヒルズ(砂丘)、ストックトン高原、砂漠の渓谷、樹木のある山岳斜面および砂漠の草地がある。

テキサス州には名前の付いた水流だけで3,700、主要河川は15ある[19][20]。最大の川はリオ・グランデ川である。その他の主要河川としては、ペコス川、ブラゾス川、コロラド川およびオクラホマ州との州境になっているレッド川がある。テキサス州には大きな天然湖が無いので、100以上の人口湖を造成してきた[21]

テキサス州のその大きさと特徴ある歴史のためにアメリカ合衆国のどの地域に属するかは議論のあるところである。文献によってアメリカ合衆国南部あるいは南西部のどちらかあるいは双方に入ると考えられることが多い。州内の幅広い地形、経済および文化の多様性のために州全体を一つの地域に含めることは危険である。州の東部、中央部および北部は南西部よりも南部との結び付きが強く、一方最西部や南部はアメリカ合衆国南部よりも南西部との類似性が強い。

[編集] 地質

参照:テキサス州の地質

テキサス州はグレートプレーンズの最南端にあり、その南はメキシコの褶曲する東シエラマドレ山脈で終わっている。大陸地殻が安定した中原生代クラトン(剛塊)を形成し、幅広い大陸縁辺と遷移地殻にわたって変化し、メキシコ湾の大洋近くに入っている。テキサス州最古の岩石は中原生代のものとされ、約16億年前とされている。これら先カンブリア時代の火成岩や変成岩が州内の大半に埋っており、リャノの隆起地、ヴァンホーンおよびエル・パソに近いフランクリン山脈の3か所で露出している。堆積岩がこれら古代の岩石の大半を覆っている。最古の堆積岩層は断層のできた大陸縁辺、すなわちカンブリア紀に発展した受動縁辺の側面に堆積している。この縁辺はペンシルベニア紀にローラシア大陸とゴンドワナ大陸が衝突し� ��パンゲア大陸が形成されるまで存在した。これはペンシルベニア紀の大陸衝突でアパラチア山脈とウォシタ山地の地帯の埋もれた地殻である。この造山運動の地殻は今日ダラス-ウェーコ-オースティン-アントニオ構造線の下に埋っている。

古生代後期の山脈はジュラ紀の断層がメキシコ湾を開き始めたときに崩壊した。パンゲア大陸が三畳紀に分解し始めたが、海洋底拡大によるメキシコ湾の形成がジュラ紀中期と後期にのみ起こった。海岸線がテキサス州の東縁に再度移り、メキシコ湾の受動縁辺が形成され始めた。

今日、9ないし12マイル (14 - 19 km) の堆積層がテキサス州の大陸棚の下に埋っており、アメリカ合衆国の石油埋蔵量のかなりの部分がここにある。初期のメキシコ湾盆地はその形成の初めには限られたものであり、海水が完全に蒸発することが多くてジュラ紀の厚い蒸発岩を形成した。これら岩塩の堆積物は塩のドーム状ダイアピルを形成しており、東テキサスのメキシコ湾岸に見ることができる[22]

東テキサスの露頭は白亜紀や古第三紀の堆積物であり、始新世褐炭の重要な沈殿物を含んでいる。北部のミシシッピー紀やペンシルベニア紀の堆積物、西部の二畳紀の堆積物、および東部のメキシコ湾海岸沿いとテキサス州大陸棚の白亜紀堆積物には石油が含まれている。漸新世火山岩がテキサス州最西部ビッグベンド地域に発見されている。西部高原地域のオガララ帯水層と呼ばれる中新世堆積物の層は重要な帯水層である[23]。テキサスは活動的なプレートテクトニクスの境界からは遠くにあり、火山が無く、地震もほとんど無い。

[編集] 気候

参照:テキサス州の気候

東部は温暖湿潤気候(ケッペンの気候区分:Cfa)、西部はステップ気候(北部はBSk、南西部はBSh)。南西部にチワワ砂漠の北東部が含まれる。州南部では亜熱帯性の気候が見られる。複数の気候区が交っているため、動植物相は多様である。乾燥した西部では、湿地や河川、泉に生息する動植物の中に絶滅危惧種が多い。

テキサス州はそのサイズが大きいことと多くの気候帯が交差する場所にあるために非常に変化しやすい気象である。州のパンハンドル地域の冬は州北部よりも寒く、メキシコ湾岸では温暖である。降水量についても地域での変化が大きい。州最西端のエル・パソでは年間降水量が8インチ (200 mm) にしかならないが、南東部のヒューストンでは54インチ (1,370 mm) にも達する。北中部のダラスでは年間降水量37インチ (940 mm) とそこそこの量である。

パンハンドル地域や州西部の山岳部では舞冬雪が何度も降るが、州北部では年に1・2度、中部と東部では数年に1度しか降らない。サンアントニオより南、すなわち海岸部では極少数の例外を除いて降雪は稀である。最近の降雪例としては2004年のクリスマスイブにヒューストンでは始めてのホワイトクリスマスを記録し、12月の平均最高気温が 65°F(18℃) である南のキングズビルでも6インチ (15 cm) の降雪があった[24]

夏の最高気温は西部山岳部やメキシコ湾のガルベストン島で 80°F(26℃) 台、リオ・グランデ渓谷で 100°F(38℃) 近辺となるが、テキサス州の大半の地域は 90°F(32℃) 程度である。

夏の夜の気温は西部山岳地での50°F(14℃) 台後半[25]から、ガルベストンでの80°F(26℃) まで変化する[26]

雷雨は特に州東部と北部で多い。竜巻道がテキサス州北部を通っている。アメリカ合衆国内でも竜巻の発生回数が多い州であり、年平均139回となっている。竜巻は北部とパンハンドル地域で多く発生している[27]。年間では4月、5月および6月に発生回数が多い[28]

アメリカ合衆国史の中でも破壊度の大きいハリケーンの幾つかがテキサスを襲った。1875年のハリケーンではメキシコ湾岸インディアノーラで約400人が死亡し、1886年にもう一度インディアノーラを襲ったハリケーンは町全体を破壊し、現在はゴーストタウンになっている。このためにガルベストンが主要港湾市の地位を引き継いだ。1900年のガルベストン・ハリケーンでは、ガルベストン市民約8,000人(12,000人の可能性もある)が死亡し、アメリカ合衆国史で最大の自然災害になっている。その他大きな被害を出したハリケーンとしては、1915年のガルベストン・ハリケーン、1957年に死者600人以上を出したハリケーン・オードリー、1961年のハリケーン・カーラ、1967年のハリケーン・ビューラ、1983年のハリケーン・アリシア、2005年のハリケ� �ン・リタ、および2008年のハリケーン・アイクがある[29]。熱帯低気圧も大きな被害を出すことがあり、1989年と2001年のアリソンと1979年のクローデットが特に大きなものである。

テキサス州はアメリカ合衆国で最大の温室効果ガスを排出している[30][31][32]。毎年の二酸化炭素排出量は1.5兆ポンド(6.8億トン)近くに上っている。世界の国と比較したとき、テキサス州は第7位の排出量となる[31]

[編集] 人口動勢

参照:テキサス州の人口動態

テキサス州民を指す英語の呼称は「テクサン」(Texan)であるが、かつてはテクシャン(Texian)と呼ばれていた。スペイン語ではテハーノ(Tejano)といい、英会話ではヒスパニック系のテキサス州民のことを指す。

2009年現在、テキサス州は人口24,782,406人である。前年より1.97%、2000年より16.1%増加した.[33]。2000年と比較して出生数から死亡数を引いた自然増では1,389,275人が増加し、国外からの移民で801,576人、国内移動で451,910人が増加した[2]。2004年時点で350万人の外国出身者がおり(州人口の15.6%に相当)、このうち120万人が不法在留外国人 (不法在留外国人はテキサス州内の外国生まれの3分の1以上及び総計州人口の5.4%と計算する) であると見込まれる。2000年から2006年の間の不法移民増加率では国内最大である[34]。2010年、不法移民は州人口の6.0%となっている。これは国内の50州では5番目に高い数字となっている[35][36]

テキサス州の人口密度は1平方kmあたり34.8人であり、全国平均の31人より幾らか高くなっている。テキサス州とフランスは国土の大きさが接近しているが、フランスの人口密度は1平方kmあたり110人とかなり高くなっている。

テキサス州民のうち3分の2はヒューストンのような主要都市圏に住んでいる。テキサス州ではダラス・フォートワース都市圏が最大である。ヒューストンがテキサス州最大、かつアメリカ合衆国で第4位であるが、ダラス・フォートワース都市圏はヒューストン都市圏よりかなり大きくなっている。

[編集] 人種構成

テキサス州の人口動勢 2004年 2003年 2002年 2001年 2000年
総計 22,490,022人 22,103,374人 21,723,220人 21,334,855人 20,851,790人
白人 (ヒスパニック以外) 10,986,937人 11,049,172人 11,094,951人 11,138,076人 11,190,222人
49.8% 50.4% 51.1% 51.8% 52.7%
ヒスパニック (民族問わず) 7,781,211人 7,519,603人 7,258,302人 6,993,458人 6,669,666人
34.6% 34.0% 33.4% 32.8% 32.0%
黒人 (ヒスパニック以外) 2,535,285人 2,500,125人 2,463,047人 2,426,088人 2,378,444人
11.3% 11.3% 11.3% 11.4% 11.4%
アジア系 (ヒスパニック以外) 695,293人 666,261人 636,223人 604,846人 567,526人
3.1% 3.0% 2.9% 2.8% 2.7%
インディアン 77,662人 76,071人 74,538人 72,762人 70,405人
0.3% 0.3% 0.3% 0.3% 0.3%
混血/他 210,349人 203,238人 196,159人 188,529人 178,812人
0.9% 0.9% 0.9% 0.9% 0.9%

すべてのデータはアメリカ合衆国統計局 州人口見込みからの情報である[37]

テキサス州内で祖先グループと報告された最大の民族は:メキシコ人 (24.3%)、アフリカ系アメリカ人 (11.5%)、ドイツ系アメリカ人 (9.9%)、アメリカ白人 (7.2%)、及びアイルランド系アメリカ人 (7.2%)。

国勢調査データーはテキサス州の人口の7.8%が5歳以下、28.2%が18歳以下および9.9%が65歳以上と報告している。女性はおおよそ人口の50.4%である。

ドイツ人の子孫は州中部と南東部に多い。テキサス州民の3分の1以上がヒスパニック系であり[38]、最近入ってきた者が多いが、テハーノの中には18世紀のテキサスから数世代を経る者もいる。アフリカ系アメリカ人の場合、元奴隷の子孫に加えて最近の新大移動によって州内に仕事を求めてきた学卒者も多い[39]。最近は特にヒューストンとダラスでアジア系アメリカ人の人口が増加している。その他の都市ではオースティン、コーパスクリスティおよびマッカレンに近いシャリーランドでアジア系アメリカ人の人口がかなり増加している。

[編集] 宗教

テキサス州の住人の信仰する宗教および宗派は:

2000年時点で最大の宗教会派はローマ・カトリック教会で4,368,969人、次に南部バプテスト協議会3,519,459人、合同メソジスト教会1,022,342人となっている[40]

テキサス州東部はバイブル・ベルトの「バックル」部と呼ばれ、社会的に保守的である[41]。ダラス・フォートワース都市圏には3つの福音主義者神学校と1つの男子修道院があり、カトリック系神学校であり歴史的建造物のダラス大学もある。ヒューストンのレイクウッド教会は毎週43,000以上の信徒が礼拝することでは国内最大である[42]。地元の伝承ではラボックの一人当たりの教会の数では国内最大と言われる[41]

非キリスト教宗教の信者はテキサス州の都心部に多い。イスラム教徒は約40万人がいる[43]。ユダヤ教徒は約128,000人である[44]。ヒンドゥー教やシーク教などの信者は146,000人である[45]

[編集] 言語

5歳以上の全人口の66.35%が英語、29.09%[46] がスペイン語を話している。スペイン語話者数はカリフォルニア州に次ぐ。英語はテキサス独特の訛りが強い南部アメリカ英語を話す。

[編集] インディアン部族

アコキサ族、アラバマ族、アナダルコ族、アパッチ族、アラナマ族、アタカパン族、ビダイ族、ビロキシー族、カドー族、チェロキー族、チョクトー族、コアユルテカン族、コマンチ族、クリーク族、デアドーズ族、アイッシュ族、グアスコ族、ハイナイ族、ハシナイ連邦、ナベダチェ族、ナソニ族、イスレタ族、ヒカリア・アパッチ族、カドハダチョ連邦、カランカワ族、キチャイ族、カイオワ族、コアサチ族、リパン・アパッチ族、ムスコギー連合、パカナ族、パスカゴーラ族、プエブロ族、パチリ族、クアポー族、ショーニー族、シュマン族、ソアカチノ族、タワコニ族、トンカワ族、ワコ族、ウィチタ族といったインディアン部族が、広大な同州の沿岸部から大平原部まで、狩猟民、農耕民取り混ぜて先住していた。

カイオワ族やコマンチ族は18世紀にメキシコ経由で馬を手に入れ、一大騎馬狩猟民となった。遠征隊を組んで、遠く中南米まで足を延ばした記録も残っている。1847年の「和平会談」で、コマンチ族が3000ドル相当の「贈り物」と引き換えに彼らの領土内での白人の通行を認めた。こうして入植白人の幌馬車隊は、この「テキサス道」と呼ばれる入植経路を使ってインディアンの土地に一気に押し寄せた。命の糧のバッファローを虐殺し、勝手に農地を拓く白人の狼藉に怒った略奪狩猟民のカイオワ族やコマンチ族は同盟を組んで、これら入植白人に対して全面的に戦いを挑んだ(「テキサスのインディアン戦争」)。

「開拓者を襲う恐ろしいインディアン」は、20世紀になって西部劇映画の題材として繰り返し描かれた。コマンチ族やカイオワ族、アパッチ族は「悪いインディアン」としてこういった西部劇映画に、デタラメな姿で登場する常連悪役部族となった。「西部劇映画の制作」という国家をあげてのインディアン民族に対する嫌がらせは、1970年代まで半世紀以上も続けられた。

彼らの他に、カランカワ族やトンカワ族、アタカパン族など、多様な部族集団が先住したが、「テキサス・インディアン戦争」の末に、すべて19世紀にオクラホマ州へ強制移住させられた。

全域にかつて先住した一大部族集団「コアユルテカン族」は、19世紀中に白人牧場主による「インディアン狩り」によってほぼ絶滅させられた。インディアンを追い払った後の広大な土地は、「一番遠くまで馬で駆けた者が、そこまでの土地を貰う」というような「賭けごと」によって、日本の市町村級の規模面積で白人個人入植者に分配された。

現在、アメリカ連邦政府から公式認定され、「保留地(Reservation)」を領有する部族はキカプー族、ティグア族、アラバマ・コウシャッタ族の3つ。キカプー族は、19世紀に5大湖地方から白人の侵入を嫌って南下、この地までやってきた。

ティグア族(イスレタ・プエブロ族)は、一部がニューメキシコ州からの「飛び地」のような場所に存在し、テキサスに「ティグア保留地」を領有している。アラバマ族とコウシャッタ族は長らく絶滅部族の扱いだったが、近縁の両部族は提携結集し、1987年にアメリカ連邦政府からインディアン部族として公式認定され、「復活」した。

他のインディアンたちは、部族単位では認定されていない。「チェロキー族」や「セミノール族」、「クリーク族」は19世紀に東部から大陸を横断して強制移住させられた末裔だが、現在公式認定を抹消され、部族として存在しないことになっている。

2009年、テキサス州議会は、「リパン・アパッチ族」を部族認定した。以後、連邦認定と併せて、州議会に部族認定を要求する部族が増えている。

≪アメリカ連邦政府が公式認定している部族≫

≪アメリカ連邦政府に公式認定を要求中の部族・団体≫

America's National Parks ~アメリカの国立公園を訪ねて~:Ohio


  • William Howard Taft National Historic Site

  • Dayton Aviation Heritage National Historical Park

  • Hopewell Culture National Historical Park

  • Cuyahoga Valley National Park

  • First Ladies National Historic Site

  • James A. Garfield National Historic Site

  • Perry's Victory and International Peace Memorial


人気絶頂を誇るリーダーの後を継ぐことは、昨今の例を見るまでもなく、難しいことである。後任者は前任者ととかく比較される一方で、前任者の積み残しを処理する損な役回りを演じなければならない。セオドア・ルーズベルト大統領の後継指名を受けて第27代大統領に就任したWilliam Howard Taft(ウィリアム・ハワード・タフト)もその一人である。タフトは、絶大なる人気を誇ったセオドア・ルーズベルト大統領の進歩的政策の継承を期待されたが、その期待はときとして厳格な憲法解釈をとる法律家としての信念と衝突することとなり、結果として前任者の期待に反する政策を遂行し、前任者のチャレンジを受けて再選を逃すという辛酸を舐めた。後に最高裁長官に選ばれ、その職責を心から歓迎したという。タフトは、一時は体重が350ポンド(160kg)を超え、アメリカ史上最も太った大統領という不名誉な称号を受けているが、アメリカで大統領と最高裁長官を経験した唯一の人物である。彼の実家がWilliam Howard Taft National Historic Site(ウィリアム・ハワード・タフト国立史跡)として、オハイオ州のシンシナティーに保存されている。

タフトは、1857年9月15日に、オハイオ州シンシナティーで、有力な弁護士の父Alphonso(アルフォンソ)と母Louisa(ルイーザ)との間の3番目の子供として生れた。アルフォンスは、後にグラント政権下で戦争長官と司法長官を務め、さらにはオーストリア=ハンガリー帝国大使、ロシア帝国大使を歴任した人物である。タフトも、有能な法律家であった父親の背中を見て育ち、父親と同じく法律家を目指すようになる。父親と同じくエール大学に進学し、卒業後地元のシンシナティー大学のロースクールで法律を学び、オハイオ州の弁護士として登録された。オハイオ州のハミルトン郡の検察官を皮切りに、内国税徴収官、ハミルトン 郡法務官、オハイオ州高裁判事など地元法曹界で活躍した。1900年には、33歳の若さで連邦訟務長官に任命され、1902年には連邦高裁判事に任命され、法律家として出世街道をまい進した。同じ頃、シンシナティー大学ロースクールの学長も務め、憲法を教授した。この頃から彼の夢は、いつの日か最高裁長官になることであった。


タフトの実家

その夢は途中寄り道をすることになる。1900年マッキンリー大統領は、米西戦争の結果新たに米国領となったフィリピンの民生政権への移行準備委員会の委員長にタフトを任命した。タフトは、翌年、そのままフィリピン総督に就任した。タフトは、インフラ整備、近代的な法治国家の建設にまい進し、その努力はアメリカ、フィリピンの双方で高く評価された。1903年にセオドア・ルーズベルトから最高裁長官への打診があったが、タフトは、フィリピンでの国家建設が道半ばであるとして辞退している。1904年には、米国に戻り、セオドア・ルーズベルト政権下で戦争長官に任命された。1906年に当時アメリカ領であったキューバで反乱が起きた際には、キューバの臨時総督に任命され、1907年にはパナマ運河委員会の委員長 に選ばれ、パナマ運河プロジェクトの初期段階の監督を行った。セオドア・ルーズベルト大統領のタフトの行政手腕に対する信頼は厚く、大統領が外遊中は事実上NO.2の役割を果たした。

1908年の大統領選挙では、セオドア・ルーズベルト大統領は不出馬を宣言し、タフトを後継に指名した。圧倒的な人気を誇る現職大統領の後押しで、タフトは、民主党のWilliam Jennings Bryan(ウィリアム・ジェニングス・ブライアン)候補を大差で破り、第27代大統領に就任した。タフトは、政府の力を用いて社会改革を実現していくセオドア・ルーズベルト大統領の進歩主義を支持することを自認していたが、彼の自認する進歩主義は、厳格に解釈された、法律で与えられた権限の範囲内でという限定付きのものであった。また、ルーズベルトの政治的な狡猾さは持ち合わせておらず、法律を素直に厳格に適用するため、多くの政敵を作ってしまった。80の独禁法訴訟の提起、州際取引委員会の鉄道運賃規制の権限強化、郵便貯金制度の創設、所得課税や上院議員の直接選挙を認める憲法改正など進歩的な実績を上げつつも、これらの政策は議会の進歩主義者からは十分でないと見られる一方で、保守派の反発を招いた。と� ��わけ、1909年の関税法を巡っては、大幅な関税の引き下げを目指したものの、途中で保守派と手を握ったため、中途半端な引き下げに終わり、関税が引き上げられたカテゴリーもあったことから、進歩派の反発を招いた。進歩派は、これをタフトの裏切りととらえ、1912年の大統領選挙では、再びセオドア・ルーズベルトを担ぎ出そうとした。ルーズベルトもタフトが進歩主義路線から外れているとみて出馬に意欲を示した。タフトは、共和党の保守派と結び、進歩派を追い出したため、ルーズベルトは、進歩派を結集して、第3の政党である進歩党を結成し、大統領選に出馬した。両者は激しく相手を批判し、共和党の票はタフトとルーズベルトに分かれた。この分裂劇は民主党候補であったWoodrow Wilson(ウッドロー・ウィルソン)に勝利をもたらしただけであった。

失意のタフトは母校のエール大学に戻り、憲法の教授となった。タフトは、エール大学教授を8年間務めたが、この間、第1次戦争が勃発し、軍需産業と労働者間の紛争処理を行う委員会の委員長も務めた。仲裁を通じた紛争の解決を提唱し、後に国際連盟へと発展する前身ともいうべきLeague to Enforce Peaceの会長を務めた。そして再びタフトにも運が回ってくる。1921年共和党のWarren Harding(ウォーレン・ハーディング)大統領は、タフトを最高裁長官に指名した。タフトは全会一致で上院の承認を得て、第10代最高裁長官に就任した。念願がかなったタフトは、後に最高裁長官時代が彼の人生の花であり、大統領であったことは覚えていないと語ったという。当時最高裁は、連邦法案件は何でも持ち込まれていたため、大量の未処理案件を抱えていた。タフトは、議会に働きかけ、最高裁に事案の重要性に鑑みて案件を選択できる権限を獲得した。また、最高裁と長官に連邦裁判所システム全体への監督権限を獲得し、3権目の柱として統制のとれた組織体制の確立を可能とした。現在の最高裁の建物は、タフト長官の時代に実現したものである。タフトは1930年まで最高裁長官を務め、健康上の理由から辞任後間もなく亡 くなった。彼は、アーリントン墓地に葬られている。

タフトは最初から最高裁長官になった方がよかったのかもしれない。

(国立公園局のHP)

2012年5月19日土曜日

Asahi.com(朝日新聞社):バグダッドにあるネストリウス派キリスト教の総本山 - 秘境添乗員・金子貴一の地球七転び八起き - トラベル


 イラク戦争が勃発する半年前の2002年9月、私は、イラクの首都バグダッドにいた。サダム・フセイン大統領(当時)の従兄弟で、情報副大臣を務める政府高官にインタビューを行うためだ。約1カ月に及ぶバグダッド滞在で、度重なるインタビューが無事終了すると、私は、イラク政府の許可を得て、国内各地を見学することにした。

 アメリカとの戦争が既に予想され、滞在中、CNNでブッシュ大統領(当時)の攻撃的な発言が放映される度に、ピリピリとした緊張感がイラク国民を襲うなかでの国内旅行だ。

 フセイン政権下では、外国人ジャーナリストの行動には厳しい規制が掛けられていた。許可を得たと言っても、実のところ、私には情報省の役人がガイド兼通訳という名目で同行し、監視されていたのだ。

 私が目的地として申請したのは、それまでの秘境添乗員やジャーナリストとしてイラクを訪問した際には見学できなかった、イラク博物館と、バグダッド内外に点在するイスラム教、キリスト教、イラクとイランの伝統宗教であるサービア教の聖地群である。

 私たちが、バグダッド市内にある、ネストリウス派キリスト教「古代東方教会」の総本山「セレウキア・クテシフォン使徒座」を訪れたときは、ちょうど日曜学校の卒業式が行われるところだった。

2012年5月17日木曜日

中華人民共和国 - Wikipedia


中華人民共和国
中华人民共和国
国の標語: なし
国歌: 義勇軍進行曲
註1: 香港、マカオを含まない。
註2: 中華人民共和国と、面積順位第3位とされるアメリカ合衆国の面積は非常に近く、それぞれの国土の定義によっては、順位が入れ替わることがある。

中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、中国語: 中华人民共和国)、通称中国(ちゅうごく)は、1949年に中国共産党によって建国された社会主義国家。東アジアのユーラシア大陸東部に位置する。首都は北京市。

概要

世界最大の人口を擁する国家である。約13億人という人口は、19世紀末の世界人口(13-15億人と推計)、あるいは、現代の西ヨーロッパ(約4億人)とアフリカ(約10億人)の合計に匹敵する。ただ、中国国内の潜在的な人口は、統計上含まれない黒孩子(ヘイハイズ)や盲民と言われる浮浪民の人口などによって大きく変わり、実数ははっきりしない。

人口の94%を占める漢族のほか、チワン族、ウイグル族、モンゴル族、チベット族、回族、ミャオ族、イ(彝)族、トゥチャ族、満族など、政府が認定している55の少数民族よりなる多民族国家である。

また人口、国土面積においても世界最大の単一国家である。

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシア、モンゴル、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、ブータン、ミャンマー、ラオス、ベトナムと隣接している。また黄海や東シナ海を挟んで日本や大韓民国(韓国)とも接している。ギネスブックによれば最も多くの国(16ヵ国)と国境を接している国である。

国名

正式名称は中国語(普通話)の簡体字による表記で、中华人民共和国(ヂョンファ・レンミン・ゴンフアグオ、拼音: Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó 発音ヘルプ / リンク。通称は、中国(ヂョングオ)。

公式の英語表記は、People's Republic of China。通称は、China。略称は、PRC

日本語の表記は、中華人民共和国。このほかに、かつて「中共」もしくは「新中国」と称された時代もあった[2]

「中華」は、世界の中心にある、もっとも華やかな文明という意味であり、元々は黄河文明発祥の地とされる現在の河南省のあたりを指した言葉であった。因みに中華の華はもともと世界の中心の夏(古代の王朝)という意味の中夏だった[要出典]

歴史

中華人民共和国成立以前

3000年以上にわたり、幾つもの王朝の興亡を経てきた。漢族の王朝・明が1644年に滅亡し、満州人の王朝・清が最後の王朝として中原王朝の座を掌握した。だが、アヘン戦争(1840年 - 1842年)で清朝がイギリスに敗れると植民地化が始まり、日清戦争で日本に敗れたことにより列強による植民地化が進行する。これを契機に、「滅満興漢」をスローガンとした、満州人の支配に対する漢族の革命運動が各地で起こり、その結果、1911年の辛亥革命を契機として翌1912年に中華民国が成立(直後に清朝は消滅)した。なお、中華民国は東アジア初の共和国である。

しかし、その後も日本やイギリス、フランスやドイツなどの列強による中国大陸の局地的な支配が続いた他、軍閥による群雄割拠が続いた上に、統一国家の体をなさない混乱状態がしばらく続いた。また、その後は非漢族居住地たるモンゴル・チベットなどの支配も目論んだが、活発な独立運動が行われた。その後、1930年代の満州国の建国や、その後に発生した日中戦争において中国大陸の多くの部分が日本によって統治されたものの、1945年の第二次世界大戦における日本の敗北によって日本が中国大陸から撤退し、中華民国が連合国(戦勝国)の一国として中国大陸を改めて完全統治する体制が整った。

しかしその後、1930年代から日中戦争をはさんで断続的に行なわれていた国共内戦において、ソビエトから支援を受けていた中国共産党率いる中国人民解放軍が、アメリカからの援助を受ち切られた中国国民党率いる中華民国国軍に対して勝利をおさめ、1949年に共産主義政党による一党独裁国家である中華人民共和国を樹立、翌年までに台湾および福建省の一部島嶼を除く中華民国の統治国土を制圧した。なお、国民党政府は進駐中であった日本の領土である台湾島に追われるかたちで政府機能を移転(その後、日本は1952年にサンフランシスコ講和条約に基づき権原を放棄)、その後も国際法上、空白地である台湾島とこれらの島嶼地域は現在国民党政府の実効支配下にある。

中華人民共和国成立後

中華人民共和国は、国家指導者の指導理論や政策などによって、毛沢東時代(1949年 - 1978年)と鄧小平時代以降(1978年 - )の2つの時代に分類することができる。

毛沢東時代の中華人民共和国は、社会の共産主義化を推進した。建国直後の1949年にウイグル侵攻(en)を行いウイグルを占領した。1950年にはチベット侵攻を行いチベットを併合した[3]。1952年には朝鮮戦争に介入し、韓国軍と、アメリカ軍を主体とする国連軍による朝鮮統一を阻止した。毛沢東の指導のもとで大躍進政策と核開発を行ない、多くの餓死者と被爆者[4]を出しながらも核保有国としての地位を確保する。1959年のチベット蜂起を鎮圧すると、1962年にはチベットからインドに侵攻した(中印戦争)。1974年には南シナ海に侵攻し、ベトナム支配下の西沙諸島を占領した(西沙諸島の戦い)。1969年にはソビエトとの間に軍事衝突が引き起こされた(中ソ国境紛争)。その後、経済の立て直しを巡る対立から毛沢東が文化大革命(文革)を発動し、「反革命」派とされた人々の多くがつるし上げや殺害を受け、国内は内乱状態となった。内モンゴルや満洲の先住民族に対しては内モンゴル人民革命党粛清事件などの粛清を行った[5]。文革は、毛沢東の死と共に終結した。外交ではソビエトと対立するアメリカや日本などの資本主義諸国と国交を樹立し、経済支援を受けるとともに国連安全保障理事会常任理事国となり国際社会に強い影響力を持つことに成功した。その後、華国鋒が毛沢東の後を継いだが、1978年12月の第11期3中全会で鄧小平が実権を掌握した。

鄧小平時代以降の中華人民共和国は、政治体制は中国共産党による一党独裁体制を堅持しつつも、市場経済導入などの経済開放政策を取り、中華人民共和国の近代化を進めた。1979年には中国が支援するポル・ポト政権を打倒したベトナムに侵攻し(中越戦争)、1984年には再びベトナムに侵攻した(中越国境紛争)。1988年にベトナム支配下のジョンソン南礁を制圧した(南沙諸島海戦)。経済の改革開放を進め、「世界の工場」と呼ばれるほど経済が急成長した。一方、急激な経済成長とともに貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また、政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢を取り続けている。1989年の六四天安門事件や2005年の反国家分裂� �成立などはその一例である。1989年の六四天安門事件は、民主化要求の大規模政治運動であったが、当時ソビエト連邦(ソ連)ではミハイル・ゴルバチョフ書記長により、経済の自由化のみならず、政治の自由化まで推し進められようとしていたが、鄧小平の自由化は経済に限定されていた。1985年にゴルバチョフが北京を訪れた際、世界はゴルバチョフを賞賛するとともに、鄧小平の改革開放路線を中途半端なものとして批判した。この空気は、国内にもくすぶり、共産党員の中にも「政治開放が必要」との声も上がるほどであったが、その延長線上で天安門事件が起こる。しかし、鄧小平は、天安門広場に集まった学生に戦車と銃を向け「経済は開放しても、共産党独裁は変えない」という強いメッセージを示した。経済の開放を強力に� ��し進めた結果、全国民の0.4%が国民所得の70%を占有するようになり年々格差が拡大し続けている[6]

地理

世界最大の人口を持つ国、中華人民共和国はアジア大陸の東部、太平洋の西海岸に位置し、国土はチベットとウイグル(東トルキスタン)も中国と見なした場合は9,597,000km²でロシアとカナダに次ぐ面積であり、世界第3の大きさであるとされることが多い。水面積の統計上の処理の方法によってはアメリカ合衆国の面積の方がわずかに中華人民共和国を上回るとされることもある。領土は北は漠河以北の黒竜江の中軸線から、南は南沙諸島の一部まで。東は黒竜江とウスリー川の合流する地点から、西はパミール高原まで広がっている。陸地の国境線は2万2800キロで、東は朝鮮民主主義人民共和国、北はモンゴル、北東はロシア、北西はカザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、西と南西はアフガニスタン、パキスタン、インド、ネパ ール、シッキム、ブータン、南はミャンマー、ラオス、ベトナムと接し、東部と東南部は韓国、日本、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、インドネシアと海を挟んで接している。海岸線は約1万8000キロで、中国大陸の東部は渤海、黄海、東シナ海に、南部は南シナ海に臨んでいる。海域には5,400の島が点在する。これらの島嶼では南沙諸島や西沙諸島、台湾とその北東海域に位置する日本の尖閣諸島、フィリピンのミスチーフ環礁、マレーシアのラヤンラヤン島の領有権も主張している。その一部は既に武力支配され、周辺国から反感を買い警戒されている。 島嶼以外ではチベット、ウイグルの独立問題の他、インドのアクサイチン、アルナーチャル・プラデーシュ州の領有も主張している。 主要河川として黄河や長江があり、それぞれ黄河文明、長江文明を育んだ自然の恵みでもある。

政治

中国共産党とその衛星政党以外の政党は認められておらず、国民には結党の自由がないなど、事実上中国共産党による一党独裁体制である。その他に8つの衛星政党(「民主諸党派」)が存在する(ヘゲモニー政党制)。

立法機関として全国人民代表大会が置かれ、行政機関として、国務院が、司法機関として、最高人民法院が存在する。法律上は全国人民代表大会に権限が集中する。三権分立の相互抑制メカニズムは存在しない(民主集中制)。実際には国政を動かすのは中国共産党であり、共産党の最高指導集団である中央政治局常務委員会が権力を掌握する構造となっている。そのため、かつては特に人民代表大会が形骸化し、10年間も開かれないこともあったが、最近では法治を重視する政策の下、一定の役割を果すようになってきている。

また、中華人民共和国の政治において特筆すべきことは、中華人民共和国政府が中華民国政府と同時に自らを「『中国』の正統な政府」であるとしている点であることと、中華人民共和国中央人民政府が国際連合により侵略者という認定を受けていることである[7]

1997年にイギリスから返還された香港、1999年にポルトガルから返還されたマカオは、一国二制度(一国両制)の下、特別行政区として高度な自治権を有する。基本法により、独自の行政、経済および法制度を持ち、本土の法律は一部を除いて適用されない。間接かつ制限選挙であるが、行政長官選挙が行われ、立法会では一部議員を直接選挙で選出している。さらに、参加資格を主権国家に限定していない国際組織への加盟や国際会議への参加も可能である。詳しくは香港もしくはマカオの項を参照。

国家の統治体制

現在の最高指導グループである第17期中央政治局常務委員は以下の通り。

2012年5月16日水曜日

シャッキーのグアナフアト便り(4)ー スペイン語での講義: 世界の人たちとの心の交流学科


 シャッキーです。一応私も大学の先生の端くれ。観光人類学という専門分野の研究者ですからね(もとは考古学者でしたけど)。

 実は今回、グアナフアト大学の経済経営学部の観光学科(本当はちょっと違う名前なんだけど)の先生に頼まれて、学生たちに講義をしてほしいと頼まれておりました。でも出発前に忙しかったので何もできず、メキシコに着いてから講義の準備をせざるを得なかったのです。メキシコ人学生を相手に話すのですからスペイン語ですよ。昨日は朝まで準備をして講義に臨みました。